芸術の世界が私たちを引きつけるのはなぜなのか

はじめに

 芸術の世界。

 それはある人によっては身近に感じ、見たり聞いたりすることで楽しむものであり、ある人によっては、興味がないものかもしれません。

 そんな芸術の世界を描いた小説は数多く存在します。

 今回は、中でも浮世絵、人形浄瑠璃、歌舞伎、長唄の世界を描いた小説をご紹介します。

 個人的には、歌舞伎は三十年近く前に一度見たきり、あとは役者さんが芸能ニュースで話題になっているのを目にする程度。

 演目もよくわかりませんが「唐獅子」と言われれば、ああ、あの長い髪のカツラかぶった頭ををぶんぶんふりまわすやつか?という程度の知識です。

 人形浄瑠璃は一層馴染みが薄く、日本史の教科書に写真が載っているのを見たかな?くらいの認識。

 浮世絵は歌舞伎役者や美人画の絵、東海道五十三次などは、某お茶漬けのパッケージのおまけカードとして入っていたのを眺めていた記憶があります。歌川広重ですね。

 どれも「まあ見たことある」「聞いたことあるかも」くらいの知識ですが、今回ご紹介する作品たちは、その世界を全く知らずとも一気に引き込まれていってしまうようなものばかり。

 時を忘れるような、登場人物である彼らが命をかけてのめりこんでいった場所へと、わたしたちを誘う物語です。

 そんなにも私たちをひきつける芸術の世界というのは、いったいどのようなものなのでしょうか。

『おもちゃ絵芳藤』  谷津 矢車 (著) 文春文庫

 

 幕末から明治にかけて、ただ筆を取り、紙に向かい続けた一人の男の人生を描きます。

 誠実な人柄で周囲からも頼られている歌川国芳の一番弟子、芳藤。

 しかしながら、絵は真面目の一途で面白みがなく、自分でも才能がないと感じています。

 弟弟子たちは、めきめきと頭角を現し、美人画などを描けばたちまち売れる、という中、師匠が残した絵画教室を引き継ぎましたが、名もない絵師のもとで学ぼうという人はいないため、なかなかうまくいきません。

 弟弟子たちが華やかな絵で江戸の話題をさらい、名を上げていく一方で芳藤は見習いが描くもの、とされるおもちゃの解説画、「おもちゃ絵」を描くのです。

 やがて時代は明治にうつり、人々の認識も変わってきます。

 街は洋装の人々が行き交い、建物は頑丈になり、食べ物も新しいものが登場します。

 かつて世の中を賑わせた「美人画」は、人々の興味を引かなくなっていました。

 そして、芳藤の描いた絵が求められる時が来たのです。

 線の美しさ、丁寧さ、正確さだけでは、人の心を打つ絵を描くことはできないのかもしれません。

 なぜなら、そこに個性というものが見出せないから。

 しかし、芳藤は、そうした大胆な捉え方や筆致はできず、その形を正確に丁寧に描いていくやり方しかできなかったのです。

 評価されずとも、才能がないと感じても、己の生きる道はこれしかないと信じ、ただひたすらに続けたその正確な絵柄が、時代の移り変わりによって求められたのは、もはやそれが「個性」になっていた、ということなのかもしれません。

 人々に強烈な印象を残し、惹きつけられる絵柄ではないかもしれませんが、誰かが必要とする絵。

 浮世絵としての芳藤が江戸の時代に評価されなかったのは、のちにこうして誰かの役に立つため、という役割があったからかもしれません。

 芸術の神様はどこかで芳藤のことを見ているのかもしれない。

 脚光を浴びることのなかった一人の絵師の人生は、実に地味で、そして真似のできない実直さと粘り強さで持ってささやかで、確かな喜びを読むものに与えてくれるのです。

『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島 真寿美 (著) 文春文庫

 江戸時代、今世に残る人形浄瑠璃の台本『妹背山婦女庭訓 魂結び』を生み出した、近松半二。

 大阪の道頓堀で、数々の舞台を目にしながら育ってきた半二がどのようにして物語を生み出しのか。

 その背景と、彼の生き様をドラマチックに描きます。

 人形浄瑠璃や歌舞伎の小屋が立ち並ぶ道頓堀で、するっと小屋に入り込みながら、いろんな芝居を眺めてはぷらぷらとしていた半二。

 やがて人形師の親玉から「何か書いてみろ。そして俺に見せろ。」と言われます。

 芝居はたっぷりと見てきた半二ですが、いざ書いてみるとなるとこれがなかなか難しい。

 何度書いてもおもしろい話が書けません。

 時には幼馴染が半二を訪ねてきたり、ある下宿でカンヅメになって作品を仕上げ、そこで手伝いをしていた娘と結婚したり。

 そして幼馴染の訃報を耳にした半二は、衝撃を受けるとともに、これまでにあった自分の人生の中の出来事が頭の中を行き交い、そして物語の「もと」が生まれたのです。

 大阪らしく、軽快で笑いを誘う会話がテンポよく物語を引っ張っていきます。

 軽やかな笑いを誘う会話、華やかで見るものの目を惹きつけて離さない人形の動きである陽の部分と、終わりを迎えるという人の死や、終わることのない・満足することのない芸への探求、といった陰の部分が、コントラストも鮮やかに描かれています。

 この世で起こる出来事は全て物語につながっています。

 その出来事が大きな渦に巻き込まれ、吸い込まれ、そしてまた引き出されるかのように現れる物語は、何か見えざる手が働いているのかもしれない、と感じさせます。

 その見えざる手を引き寄せるのは、純粋で、空っぽで、それでいて芝居のことで頭がいっぱい、という半二のような存在なのでしょう。

 だからこそ、後世に長く残るような、人々の感情を強く動かし、その目を惹きつけてやまない作品となっていくのではないでしょうか。

 半二が描き出す世界の「渦」に、読者も巻き込まれ、浸かり、流されていくのも心地よい物語です。

『国宝 (上) 青春篇』『国宝 (下) 花道篇』吉田 修一 (著)朝日文庫

 ヤクザの息子が歌舞伎役者として生きるその鮮烈で数奇な運命を描きます。

 前半は青春編として、長崎のヤクザの息子としての時代から、父を亡くし、京都で女形の修行をしていく場面を中心に描き、後半はその身にふりかかる多くの困難に立ち向かいながら、さらに芸を磨き、深めていく姿を描きます。

 美しい容姿を持ち、普段は穏やかでもありますが、ふとした瞬間に荒々しい面を見せる喜久雄。

 ヤクザの新年会の余興として喜久雄が踏んだ初舞台は、「気がつけば終わっていた」ような、そんな体験でした。

 父親を亡くしたことで、組の勢力も落ち込み、地元にもいづらくなった喜久雄は、母親の配慮により京都の歌舞伎役者、花井半次郎のもとで世話になることに。

 半次郎の息子、俊介とは良きライバルとなり、互いに個性を出しながら技を磨いていきます。

 そしてある時、半次郎が交通事故に遭い、足を負傷。

 来週からの舞台の主役として、なんと喜久雄が抜擢されます。

 血の繋がりのない喜久雄が選ばれ、喜久雄自身も俊介も、周囲の人間も複雑な思いを抱えますが、なんとか無事に舞台をやりとげます。

 そして、その夜から俊介は姿を消してしまったのです。

 数年後、姿を現した俊介は妻と子供を連れていました。

 そして俊介復帰のために入念な脚本が練られたのです。

 前半は歌舞伎へ向ける師匠、喜久雄と俊介、そして他の役者たちの情熱と、ほとばしるエネルギーが満ち溢れ、光り輝くような強さを彼らから感じます。

 後半は、変わっていく芸能界のルールや世論、報道などに悩まされる喜久雄や、それを利用して見事な復活を遂げていく俊介の対照的な様子が目を惹きます。

 年を経て、再び舞台に上がる二人ですが、神様はどこまでも皮肉な運命を彼らに与えるようで…。

 テレビの普及により、芸能界や人々が求める「芸」というものが少しずつ変わっていく様子がよくわかります。

 世の中の大きな動きに、そして自分自身の不甲斐なさに振り回され、信頼と裏切りを何度もくりかえしながらも、舞台に立ちたいと思い続ける彼らのモチベーションとは何なのでしょうか。

 舞台の上にだけあらわれる美しい世界。

 そこに立っている時、喜久雄は安心して呼吸できるかのようです。

 舞台に立つことで、魂が輝き出す喜久雄の演技は、もはや演技というものではなく、演ずることが「生きること」になっているのかもしれません。

 その唯一の、そこにだけある世界で「生きたい」と強く願う気持ちが、役者たちが舞台に立つモチベーションなのでしょう。

 彼らの魂が輝く舞台の強い光に、私たちは惹きつけられずにはいられないのです。

『新装版 絃の聖域』栗本薫 (著)講談社文庫

 『国宝』を読了後、どうしても読みたくなった本がこちら。

 初版は昭和55年。なんと40年も前の作品になります。

 現在は紙の本の入手は中古のみのようですね。Kindleで購入が可能です。

 『国宝』では歌舞伎の人間国宝が登場しましたが、こちらは長唄の人間国宝が登場します。

 長唄の家元の邸宅で、ある夜一人の女弟子が殺害されます。

 証拠が発見されず、捜査が難航しているところ、今度は番頭が殺されてしまいます。

 そこで名探偵・伊集院大介が登場し、事件は解決するかと思いきや、またしても死者が…。

 というミステリー仕立ての物語です。

 昭和55年当時をもってしても「古くさい」と山科警部に感じさせる、どんよりとした重苦しい空気が漂う長唄の家元の邸宅には、人間国宝である喜左衛門喜をはじめ、様々な思惑を持つ人間たちが住んでいます。

 喜左衛門の娘の八重は夫を憎み、息子の由起夫に愛情の全てを注ぎ込んでいます。

 八重の夫、喜之助は作曲の才能に優れ、同じ敷地内に愛人とその連れ子を住まわせています。

 八重の愛人に惚れ込み、母親から奪おうと画策する八重の娘・妙子。

 そして病弱でありながら母に似た美貌を持つ儚げな少年、由起夫。

 この人間関係だけでも複雑かつドロドロであり、紙の向こうから彼らの抑えた怒りや憎しみなどの熱が放たれてくるようです。

 愛が複雑に絡んだミステリーでもありますが、やはり注目したいのは「芸」です。

 画像や音声技術がいまほど発達していなかった当時、「死ぬまでに一度聞きたい」と多くの人に言わしめた喜左衛門の長唄。

 そして、その一門を維持し、その才能を繋いでいくために、それぞれが何を思い、どのように行動を起こしていったのか。

 それがあらゆる悲劇につながっていき、そして奏でる三味線の音色や長唄の声などの「艶」としてコーティングされるのでしょう。

 呪われた血であるためにそこから脱しようとする者、呪われた血であるために脱することのできなかった者。

 その思いが濃く、重いものであるほど、その奏で、吟じられる響きは遠くまで、心の奥深くまで届いていくものなのかもしれません。

まとめ

 いかがでしたでしょうか。

 芸の世界に足を踏み入れその才能を発揮する人々は、神様に愛されるだけあり、ふりそそぐ困難も並の人間には計り知れないもののようです。

 それらの出来事を全て芸の肥やしとして己に吸収し、頭のてっぺんからつま先まで、気を研ぎ澄ませて出し切り、伝えていく。

 その鬼気迫る姿に、私たちは胸を打たれるのかもしれません。

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