現代に生きる私たちが考え、感じるフェミニズム

『読書する女たち フェミニズムの名著は私の人生をどう変えたか』

ステファニー・スタール (著), 伊達 尚美 (翻訳)  イースト・プレス

概要

女子大学の学生でフェミニズムを学んだ著者のステファニーは、卒業後マスコミ関係の仕事に就き、ジョンと結婚ののちシルヴィアを出産。シルヴィアの育児や家事をしながら、時間をやりくりして、フリーランスのライターとして働く日々。

夫のジョンは育児にも協力的。それなのに夫婦の仲はなぜかギクシャクとし始める。そんな時、かつての学び舎でフェミニズムのテキスト講座がある事を知り、参加することに。

10年以上前に学んだものから、世の中はどう変化しているのか、そして自分はどう変わったのか。フェミニズムという学問を軸に、女性という性や、社会的役割、運動などの観点から探っていく。

ステファニーの子供時代

ステファニーの両親は、彼女が子供の頃に離婚。彼女は父親と暮らすことを選びます。母親は研究職に就き、仕事に喜びを感じる女性で、産後わずか1ヶ月で職場に復帰しています。そして、父親もそんな母に対して理解を示していました。

忙しく働く母と共に過ごす時間が少ない事に寂しさを感じていたステファニーですが、同じくらい母が働いている姿を誇らしくも感じていたのです。

大学卒業後、順調にキャリアを重ねていたが

大学を卒業後、就職しキャリアを積んで、結婚。妊娠がわかった時には戸惑いもあったとステファニーは言います。今なのか、と。仕事をセーブせざるを得なくなり、フリーランスとなったのは、それがベストであり、それ以外の良い方法がなかったからでもあります。

とはいえ、小さな子供がいる中での在宅の仕事は困難を極めます。泣く、叫ぶ、こぼす、話しかける。ちっとも仕事が進まず、かと言って子どもの要求を退けるのにも罪悪感があり、結局要求に応えてしまう。その結果、納期に間に合わない…。そんなイライラの繰り返しです。

大学を卒業した頃は、やる気に満ち溢れ自分の足場を築いていく事に夢中になっていたステファニー。産後、劇的に変わった社会との距離感。焦燥感と、母親としての自信の無さや、子どもに対しての罪悪感が膨れ上がっていったのです。

大学のフェミニズム講座との出会い

いろんなものに苛まれた彼女が見つけたのは、大学の「フェミニズムのテキスト講座」でした。学生時代以来、再びテキストを手にした彼女は、教授や仲間たちとともに女性の権利やその存在がどう変わってきたのかを考えます。

『自分ひとりの部屋』ヴァージニア・ウルフ(著)(1929年)

ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(1929年)は、もしシェイクスピアに、彼と同じ才能を持つ妹がいたとしたら。こんなテーマで綴られています。彼女は女であるがゆえにその才能のせいで破滅するだろうと著者は想像します。

兄と同一の教育が受けられず、家事をし、気の乗らない結婚話を勧められ、逃げ出した彼女は劇場を訪れ仕事を求めます。男たちに嘲られる彼女を気の毒に思った俳優兼劇場支配人によって彼女は妊娠し、凍える夜に自らの命を絶つのです…。

シェイクスピアの妹は当時の女性たちの象徴です。才能があってもそれを活かす機会はなく、物語を紡ぎ出す自分ひとりの部屋も持たない。それが女性の立場だったのです。ウルフは、一世紀ののちには、女性たちが充分な収入を得て、自分の部屋持ち、その才能を充分に活かす時がやってくるのだと予言しています。

ウルフが言ったように、自分に必要なのは本当に部屋や収入だけなのだろうか。ステファニーはじ自問します。深く考え、言葉にしようとすると『ママ!ママ!』とドアをドンドン叩かれるのです…。形になりかけていた言葉は空中に霧散。集中して考えることも続かないのです。わかるなあ。

『第二の性』シモーヌ・ド・ボーヴォワール(著)(1949年)

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』(1949年)は、女性について文化人類学、心理学、哲学、神話学、文学といったさまざまな角度から検証する女性論の古典です。

第二次世界大戦中に出版されたこの書は、女性の性衝動、中絶、避妊、結婚、母親の役割を率直に論じています。

なかでも「女性は生まれた時から女性なのでなく、女になるのだ」という一文にはハッとさせられます。

女性は「男性との関係で定義され、差別化される。男性が女性との関係で定義され、差別化されるのではない。女性は副次的であり、必須の存在ではなく、いてもいなくても構わない存在である。男性は主体であり、絶対である。女性はそれ以外のものである」

男性はそれ自体として存在するが、女性は男性の存在によって定義づけられるのです。つまり、男性=社会のイメージする女性像があり、そのイメージとは必ずしも合致しない女性自身もいるわけです。

社会的な「女性」イメージの存在

映画や小説において、男性に誘われると喜ぶ表現をする。

セックスでは感じているフリをする。男性にたいして従属的である。

家事を行う。子どもを可愛がる母親である。

こうした女性についてのイメージについて、多くの女性は心あたりがあるのではないでしょうか。そのイメージに基づいた行動を取ってしまう事はありませんか。そうした行為を、行動・言動をとるのは本心からですか。

本心でないとしたら、それはなぜなのでしょうか。「女性」「母親」という作られた偶像のイメージに捉われてはいないでしょうか。

女性像との乖離に悩み、融合できず分裂する女性たち

母親である自分と、そのイメージと異なる自分が融合できずに分裂してしまう。ウルフやボーヴォワールはそうしたことに触れています。男性には父親である自分とそうでない自分が分裂するということはないのでしょう。そこに男女の考え方の大きな違いがあるのかもしれません。

100年前とは比べものにならないくらい女性の地位は向上しています。しかしながら、多くの女性が結婚や出産といった変化を経て、悩みを抱えていることも事実です。これだけ多様化したライフスタイルが構築されながらも、「女性」という性の社会的なイメージに振り回されてしまうのです。

まとめ

どのような歴史や学問的解釈、社会運動を経て現代の女性像があるのか。そして、そのイメージに対して現代女性はどのように感じ、葛藤したり、受け入れたりしているのか。そのイメージを取り払った時、世界はどのようになるのか。「女性」であること、そしてその存在についてじっくりと考えさせてくれる一冊です。

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