「なかったこと」になんてならない

『象は忘れない』    柳広司(著) 文春文庫

あらすじ

The elephant never forgets.【象は忘れない】

英語の諺にこんなものがある。象は非常に記憶力が良く、自分の身に起きたことは決して忘れない、という意味である。2011年3月11日。日本を震撼された未曾有の大地震。その日、福島では一体何が起きたのか。原発事故で失われた命、電力会社と政府の欺瞞。福島から避難した母子が受けた差別。福島第一原発を題材に描く、震災と原発事故を描く短編集。

原発施設内で働く純平

福島原発施設内の配管メンテナンスをしている純平は、二つ年上の奈美子と出会い、一緒に暮らしていました。電力会社は地元では絶対的な力を持ち、住民に大きな安心感を与えている存在です。

その電力会社が紹介してくれた仕事が現在の職場でした。ところが、奈美子は原発のことを調べて不安になったらしく、チェルノブイリの事故を引き合いに出して純平を心配します。純平の口から出てくる言葉は「地震や津波では原発は壊れない」「よその人間は付き合いづらい」などと、根拠のない自信と外部の意見を受け付けない頑なさを含んだものでした。

純平の原発に対する考え方とは

純平のこうした考えは、電力会社が地元の住民の安心と信頼を得るために説明を重ねたり、住民に対して就職先を斡旋してあげることや、公民館などの施設を建て替えるなどの貢献をしたことでしっかりと根付いていきます。

ただ、原発は本当に安全な設備なのか、最悪の事態が起こった時にはどう対処するのか、といったことに対して、純平は改めて目を向けることはありません。今まで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫。電力会社が安全だって言っているからそうなんだ。

純平と自分たちの考えが共通する部分

何も福島に限ったことではないのかもしれません。日本という国自体が、ぬるりとした安全な膜に包まれているように感じられます。問題が潜んでいることを誰かが声高に叫んだとしても、膜によってその声は遠くに聞こえられるように感じ、「今まで大丈夫だったし」「別の人が大丈夫って言ってるし」と、楽で恐怖を感じない方向に思考が向かいがちなのでしょう。しかし、これが原発で働く当事者の事となった時…。

信じられない事故が目の前で起こる

恐怖の中、マニュアルを頭の中で反芻しながら、鳴り響くのはカーンカーンカーンという線量計の警報音。できるのは「祈る」ことだけ。耳の奥では奈美子が呼んでくれた童話が聞こえてきます。

オオカミはフッとふいて、プッとふいて、プッとふき、フッとふいて、プッとふきました。けれど、いくらふいても、レンガでできた家は倒れません。

『象は忘れない』    柳広司(著) 文春文庫

レンガの家に象徴される原発の爆破は、純平の中の絶対的なものが崩れ去った瞬間でした。病院で目覚めた純平がニュースで見たのは、爆破の様子と高濃度放射能汚染水が海へ流れ出たこと。人間にできることはもはや何もないのではというその規模に愕然とし、現実感が失われていくのです。

電力会社と政府、そして報道から感じたこと

国や電力会社が何の支えにもならず、表面的なことだけを都合の良いように伝え、あとは静観という名の放置。福島の原発事故をきっかけに、私たちのニュースに対する付き合い方に変化が現れたように感じます。政府は何を私たちに感じさせたいのか。どのように思い込ませたいのか。視聴者がそう受け取ることで、政府にとってどのようなメリットがあるのか。物事には必ず二面性があるのだという側面から視聴する部分が多くなったのではないでしょうか。

能の演目とイメージを重ねたストーリー仕立てにも注目

本書は他にも「トモダチ作戦」に参加した米兵や、避難した先で差別を受けた母子の話など、福島原発に関わる物語を能のタイトルと絡ませ、イメージした内容で描かれています。タイトルは『道成寺』『黒塚』『卒塔婆小町』『善知鳥』『俊寛』。これらの能の内容と本書のストーリーを照らし合わせてみると、その関連性やイメージに新たな驚きと深い感慨を覚えるかもしれません。

まとめ

電力会社や国が福島に行ってきたこと。事故に関わった社員や、米軍、そして福島の人たちの事故前、事故当時、そして数年が経過した後の現地や避難先での様子。ニュースでは流れてこない部分を小説ならではの表現で描いていきます。国や報道が流さなくなった福島にも、戦い続けている人たちがいるということ。当時ですら、伝わることのなかった出来事や思いがあるのだということ。物語を通して、目を向け続けていきたい。そんな風に感じさせてくれる一冊です。

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